「後継者は、この会社を引き継ぎたいと思うだろうか」
事業承継のご相談を受けるとき、私がひそかに心の中で思っているのはこの一点です。
後継者候補の有無、株価対策、退職金の設計——
論点はいくつもありますが、突き詰めると承継の成否を分けるのは
「渡される側から見て、その会社が魅力的かどうか」
に尽きます。
そして「魅力」の中身は、社長が思っているほど事業内容や技術力だけではありません。
後継者が最初に見るのは、決算書、とりわけ貸借対照表(B/S)といっても過言ではありません。
いわば、経営の3要素「ヒト・モノ・カネ」のうち「カネ」です。
創業社長が0から立ち上げてきた風景とは異なる風景が後継者には広がっているのです。
安定基盤があれば引き継いだ後にもとれる選択肢が後継者の手の中にあると言えます。
本コラムでは、事業承継を見据えた財務基盤強化の一手段として、融資を活用した不動産投資によって「借入を純資産に置き換えていく」プロセスを、B/Sの時系列変化と具体事例に沿って解説します。
財務に魅力のない会社は、誰も引き継ぎたがらない
後継者が本当に恐れているのは「事業リスク」ではなく「財務リスク」
親族内承継、従業員承継(MBO)、第三者へのM&A——どの形であっても、後継者候補が承継をためらう理由はほぼ共通しています。
- 個人保証(経営者保証)を引き継ぐことへの恐怖
- 将来の資金繰りへの不安
- 含み損を抱えた資産、実質債務超過という「隠れた爆弾」
新しい事業を伸ばす自信はあっても、「先代が積み上げた借入と、薄い自己資本を背負って走り出す」ことには誰しも尻込みします。逆に言えば、自己資本が厚く、含み益のある資産を持ち、金融機関と良好な関係が築けている会社であれば、後継者は前を向いて経営に集中できます。
銀行が見ているのは簿価ではなく「実態(時価)バランスシート」
もう一つ見落とされがちなのが、金融機関の視点です。銀行は決算書の簿価をそのまま信じているわけではありません。
資産を時価に引き直した「実態バランスシート」を作成し、そこから算出した実質自己資本と債務償還年数で格付け(債務者区分)を決めています。
つまり、承継のタイミングで会社が受ける評価は、 「実態純資産がいくら積み上がっているか」 という一点に集約されると言っても過言ではありません。
事業承継対策とは、株価を下げるテクニックである以前に、次世代に渡す会社の体力そのものを作る作業と言えます。
図1

「後継者が見ているB/S」——自己資本が薄い会社と厚い会社の比較図
よくある誤解|「不動産投資は手残りが少ないから意味がない」
見るべきはPL(損益)ではなくB/S(貸借対照表)
不動産投資のご提案をすると、多くの社長がこうおっしゃいます。
「家賃が入っても、返済と経費を引いたら手元にほとんど残らない。それなら本業に投資したほうがいい」
キャッシュフロー(PL)だけを見ればその通りです。しかし、事業承継を見据えた不動産投資の目的は、毎月の手残り(インカムゲイン)ではありません。
真の目的は、入居者が払う家賃で借入金の元本を返済し、負債を自己資本(純資産)へと静かに時間をかけて置き換えていくことにあります。
「他人の家賃」で自社の純資産を積み上げる
だれが負担するか | 会社に何が起きるか | |
|---|---|---|
| 物件取得 | 自己資金+銀行融資 | 資産と負債が同時に増える |
| 毎月の元本返済 | 入居者の家賃 | 負債だけが減っていく |
| 結果 | — | 純資産(実質自己資本)が増える |
本業の利益を削らずに、他人が払う家賃で負債を圧縮していく。
これは錬金術を指南しているのではなく、時間さえかければ誰にでも再現できる経営の「時間術」と言えます。
だからこそ、判断基準を「毎月いくら儲かるか」から「10年後、B/Sがどう変わるのか」へと切り替える必要があります。
図2

時間を味方につけるプロセス|B/Sはこう変わっていく
ここからは、具体的な数字でイメージを掴んでいただきます。
【事例】年商5億円・製造業A社のケース
- 年商:5億円/経常利益:3,000万円
- 自己資本:7,000万円(自己資本比率 約20%)
- 社長58歳、後継者は長男(33歳・入社7年目)
A社は本業が好調なタイミングで、次の投資を実行しました。
- 取得物件:都市近郊の一棟レジデンス 2億円
- 自己資金 3,000万円/借入 1億7,000万円(期間25年・金利1.2%)
- 年間家賃収入:約1,300万円(表面利回り6.5%)
- 運営経費控除後(NOI):約950万円
- 年間返済額:約790万円
※理解を優先するため、購入諸経費等の試算は除いています。
取得直後(0年目)
家賃から返済を引いた手残りは、税引前で年間160万円ほど。「割に合わない」と感じる水準です。
B/S上も、資産2億円・負債1億7,000万円が同時に膨らんだだけで、純資産は増えていません。
しかし、返済790万円のうち約580万円は「元本」です。
これは費用ではなく、純資産への振り替えにほかなりません。
図3

10年後
10年間で返済された元本は、累計で約6,200万円。借入残高は1億7,000万円から約1億800万円まで減少します。
物件の時価が大きく崩れない立地・構造を選んでいれば、 実質純資産(時価 − 残債)は、投下した自己資金3,000万円から一気に厚みを増します。
本業の利益蓄積とは別枠で、他人資本によって自己資本が積み上がった状態です。
自己資本比率は13%台から22%台へ——金融機関から見た会社の姿は、この時点で明確に変わります。
図4

※理解のために、本業の資産・負債は10年間横ばいと仮定し、不動産の効果だけを取り出しています。
※収益不動産の時価を2億円から1.8億円へ下落した前提としています。
20年後、そして承継の日
20年後、借入残高は約3,800万円。当初1億7,000万円あった負債の約8割が、一円も本業の利益を削らずに消えています。
純資産は7,000万円から1億6,200万円へ、自己資本比率は33.8%に。
そして残るのは、ほぼ無借金に近い収益不動産という資産です。
- 後継者は、家賃という本業と相関しない安定収益を引き継ぐ
- 万一の際に売却できる換金性のある資産を持てる
- 借入圧縮によって個人保証の解除交渉も進めやすくなる
これが、「時間を味方につける」という言葉の実際の意味です。
図5

※上記は仕組みをご理解いただくための簡易試算です。実際の収支は物件・金利・税制・空室率等により変動します。
なぜ「今」なのか|本業が好調なうちにしか打てない一手
業績が悪化してからでは、長期融資は引けない
この戦略の最大の制約は、実行できるタイミングが限られていることです。
長期・低金利の好条件融資が引けるのは、本業の業績が良く、与信に余力がある時期だけです。
決算が傾いてからでは、金利も期間も条件が悪化し、そもそも融資自体が下りません。
承継の3年前では、時間が足りない
もう一つ。この手法の主役は「時間」です。
元本返済によって純資産が積み上がるには、最低でも10年から15年が必要です。
承継の直前になってから慌てて動いても、時間だけは買い戻せません。
社長が元気で、本業が好調な今この瞬間が、10年後の会社の姿を決めます。
副産物としての最大のメリット|金融機関との強固な信頼関係
実は、この戦略がもたらす効果は、B/Sの改善だけではありません。本業を守るセーフティネットが同時に手に入ります。
20〜30年の「約定返済実績」という無形資産
通常の運転資金融資は、期間5〜7年で完済すれば取引はいったん終わります。
一方、不動産融資は20〜30年にわたって毎月遅滞なく返済実績を刻み続ける取引です。
銀行にとって、これほど安心できる優良取引先はありません。
長期にわたる返済履歴は、そのまま格付けと信用力の蓄積になります。
本業に波が来たときの「防波堤」になる
さらに重要なのが、担保余力です。
元本返済が進んだ物件は、時価と残債の差額=担保余力を持ちます。
景気後退、主要取引先の喪失、設備の緊急更新——本業に想定外の事態が起きたとき、この余力が追加融資の枠として機能します。
平時に積み上げた信用と担保余力が、有事に本業を守る。
不動産投資は、本業のリスクヘッジでもあるのです。
図6

失敗しないための3つの原則
一方で、やり方を誤れば逆効果になります。私たちが必ずお伝えしている原則です。
原則1:高利回りより「銀行評価が落ちない物件」を選ぶ
築古・高利回り物件は、表面上の収支は良く見えても、銀行の積算評価が取得直後から毀損し、実態B/S上は「実質債務超過」に近づくことがあります。
目的が純資産の積み上げである以上、積算評価・収益還元評価が安定する物件を選ぶことが大前提です。
原則2:「節税ありき」で入らない
過度な評価圧縮のみを目的とした取得は、相続税法上の総則6項(財産評価基本通達によらない評価)の適用リスクを伴います。
あくまで財務基盤の強化という経済合理性が主目的であり、税務メリットは結果として付いてくるもの、という順序を崩さないことが重要です。
原則3:本業のキャッシュフローを圧迫しない範囲で
自己資金の投下額、返済比率、空室時の耐性——本業の運転資金に影響が及ぶ設計では本末転倒です。
本業の与信を毀損しない借入規模の見極めが、専門家の腕の見せどころです。
まとめ|事業承継対策とは、10年がかりの「企業体力づくり」
事業承継対策というと、株価対策や納税資金の準備といった「出口のテクニック」に目が向きがちです。
しかし、本当に後継者が求めているのは、安心して舵を取れる財務基盤です。
- 融資を活用した不動産投資は、他人の家賃で負債を純資産に置き換える仕組み
- 判断基準はPLの手残りではなく、10年後・20年後のB/S
- 実行できるのは、本業が好調で与信に余力がある「今」だけ
- 副産物として、金融機関との長期の信頼関係と担保余力が手に入る
「引き継ぎたい」と思ってもらえる会社にするために、今日できることがあります。
ご相談について
一般社団法人つなぐチカラでは、事業承継コンサルティングの一環として、不動産を活用した財務基盤強化のご相談を承っています。
現状のB/S分析から、10年後・20年後のシミュレーション、金融機関との折衝方針まで、御社の状況に応じた設計をご提案します。まずはお気軽にお問い合わせください。
※本コラムは一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の税務・法務判断については必ず税理士等の専門家にご相談ください。
事業承継士・不動産コンサルティングマスター 石井 英彦
